2023年9月から10月にかけて、鳥取市の渡辺美術館で「時空を越えた みほとけの世界」というタイトルでグラフィックアートの手法を取り入れた仏画展が開催された。
デジタルで描かれたとは思えない美しいグラデーションと線による仏画だ。
この仏画を描いたのが、小谷さん。
本業はグラフィックデザイナーだが、ライフワークとして仏画を描いている。
なぜ仏画を描くことになったのか。
今回は、小谷さんの人生についてお話を伺った。
華やかな文化に憧れ、東京へ
小谷さんは、海が美しい岩美町の出身だ。
学生のころ、好きだった美術の方面へ進むことにした小谷さんは、高校を卒業すると東京の美術短大に進んだ。
これからの時代はデザインが仕事として成り立つと考えたため、専攻はデザインを選んだ。
華やかで最先端のものに触れられる東京は、小谷さんにとって憧れの場所だった。
実際、東京での学校生活は刺激的で、町中には横尾忠則氏など憧れの有名デザイナーのデザインが溢れていたため、町を歩くだけでも楽しかったという。
大学は2年間とはいえ、4年分の内容を凝縮して学べた。
2週間に一回、B1サイズの大きさの課題が出され、生徒全員の作品が並べられ先生が講評をした。
他の大学生のようにアルバイトをする時間もなく、とにかく課題をこなしていくという日々だったが、これがとても良かったと小谷さんは語る。
いろんな視点や気づきが得られ、数十年経った今もデザインの基本になっている。
大学で学んだことは、小谷さんの現在のデザインの原点となっている。
デザイン会社に就職するも人生が一変
大学卒業後、小谷さんは東京のグラフィックデザイン会社に就職。
このときに、先輩と一緒に製作したシチズン時計のロゴが印象に残っているという。
当時はパソコンはなく、デザインはすべて手描きだ。
一からデザインし、形になった喜びは大きかった。
10年間、会社でデザインの仕事をしたら、鳥取に帰ったら独立できるから頑張れと社長に言われており、そのつもりでいた。
充実感を得ながらデザインをしていた小谷さんだったが、ここで転機が訪れる。
ある日、大学時代の同級生から連絡が入り、新しいビジネスに誘われたのだ。
収入が大幅に上がるという話に魅せられた小谷さんは、もともと華やかな世界に憧れていたこともあり、デザイン会社を辞めて新たなビジネスの世界へ行くことを決意。
社長に止められるも、すでに新たなビジネスのとりこになっていた小谷さんは勤務10ヶ月で会社を辞め、地元の鳥取に戻ってビジネスをスタートした。
紆余曲折のなか、ホテルの副支配人に
ビジネスを始めると、またたく間にお金が小谷さんのもとに入ってきた。
生活も変わり、憧れていた華やかな暮らしを小谷さんは手にした。
だが、それは長くは続かず、組織そのものが解体したため、1年半でビジネスを辞めることとなったのだ。
商品の在庫が残り、多額の借金を抱えることになった小谷さんは、とにかく仕事をしなくてはとたまたま新聞で見つけた営業の職に着いた。
ところが、新たな職場では自分の力を発揮できず、部署を転々とさせられながら、やるせない日々を送っていた。
ここで、小谷さんの父親から救いの手が入る。
当時、鳥取駅前の大規模な開発が行われており、ホテルがいくつも建てられていた。
ホテルで働くのはどうかと父親に勧められた小谷さんは、さっそくホテルの求人に応募。
デザインが出来ることとこれまでの経験を重宝され、ホテルの副支配人に抜擢され、働くことになった。
グラフィックデザインの公募展で受賞。再びデザインの世界へ
ホテルオープン当初はデザイン仕事が多くあり、ホテルというきらびやかな所も好きだった小谷さんは充実した日々を送っていたが、デザイン業務が落ち着くと毎日同じようなルーティンの仕事となった。
満足感を得られないまま、このままでいいのかと思いながら勤めていた小谷さん。
たまたま全国に商業施設を展開するパルコが主催するパロディ展の公募を知り、デザインを応募したところ奨励賞に選ばれたのだ。
ドラマ、映画の原作にもなった森村誠一の小説『人間の証明』のパロディである。
大きくマスコミに取り上げられ、自信を得た小谷さんは毎回公募に応募するようになった。
ホテルに勤めながらデザインの技を磨いていた小谷さんに、学校の先輩がデザイン会社を作るのでデザインをしないかと声をかけてきた。
このとき、小谷さんはすでに結婚しており、奥さんにホテルを辞めてデザイン会社に入ることを相談した。
給料は今より下がることも伝えたが、すんなりと「いいんじゃないの」と許しがもらえた。
小谷さんは待っていましたとばかりに、デザインの世界へ再び戻ることにした。
29歳のときだった。
自分にとって大切なものは”時間”だった
デザイン会社の業務は多忙だった。
6名の少数スタッフで、朝9時から夜10時まで仕事に追われる日々が続く。
次から次へとデザインの依頼があり、先輩である社長には120%の出来を求められたという。
「社長はとても夢の大きな人で、わたしを鳥取1番のデザイナーにしてやる。地位も名誉も手に入れて、収入も何百万も出すからと言ってくれていました」
ところが、次から次へとやってくるデザインの仕事に精神的に追い詰められ、小谷さんはすっかり疲弊してしまった。
一時は死をも覚悟したが、まだ幼い子供たちがいることを考え、思いとどまり、病院を訪ねた。
病院で話を聞いてもらい、薬を処方されたことで一時的に楽になったものの、再び辛くなり別の病院を受診。
心理テストを受け、3年周期で気持ちのアップダウンがあると言われた小谷さんは、このままでは困ると自分自身を見つめることにした。
原因は仕事ではなく、辛くなったら逃げたくなる自分自身にあると思い、対策を考えていたある日、奥さんが毎朝あげているお経が気になった。
精神安定のためにお経をあげてみることにしたのだ。
これが、小谷さんと仏教の最初の出会いだった。
お経をあげはじめると、不思議と心が安らかになった。物事も上手くいくようになったという。
そうして小谷さんが37歳のとき、社長が心筋梗塞で急きょ入院するという出来事があった。
これはきっと多忙が原因だと考えた小谷さんは、これからはゆったりとした作業体制になるのではとひそかに期待した。
ところが、実際はその逆で、社長が会社に戻ると、「もっと頑張ろう」という気合いだった。
気持ちとしては穏やかになっていたが、忙しさに限界を感じていた小谷さんは、ここにはもういられないと判断。
奥さんに事情を話し、急きょ仕事を辞めたいと相談すると、奥さんはすんなりと「いいんじゃないの」と受け入れてくれた。
仕事を辞めたあとのあてもなかったが、奥さんの心強い一言もあり、小谷さんは思い切って退社をした。
退社を決めるまでは、先の見えないトンネルのなかにいるようだったが、辞めると決めたあとは漬物石の石がとれたような軽さを感じたという。
退社後、実際とても自由を感じたという。
「カフェにも行けるし、図書館にも行けるし、会いたい人にも会えるし」
デザイン会社に勤めて8年、ひたすら追われる日々だった小谷さんには夢のような自由だった。
小谷さんは、これからは地位、名誉、お金を捨てて「時間リッチになること」をテーマに生きることを決意。
自分にとって大切なものは「時間」だと実感したのだ。
グラフィックデザイナーとして独立
会社を辞めた小谷さんは、次にする仕事は力仕事でも土木作業でも何でもいいと思っていたが、得意先の社長さんが直接デザインを頼んでくれたため仕事がすぐに入って来た。
「会社に勤務しているときにはわからなかったですけれど、実力を認められていたのだと嬉しかったです」
こうして、小谷さんは37歳でグラフィックデザイナーとして独立したが、”自分の時間”を大事にしたかったので、スタッフを雇わず、自分の能力で出来る仕事だけを引き受けた。
デザインの公募にも挑戦し続けた。
「とにかく出したいと思ったんです。アイデアが湧いてくるので結果がどうこうではなく、出してみようという気持ちでした」
1994年、鳥取県の博覧会が開催されることになり、シンボルマークのデザインが公募された。
ここで、小谷さんのデザインしたシンボルマークが選ばれたのだ。
こうして、一躍脚光を浴びることになった小谷さんには、何もしなくても仕事が入ってくるようになった。
そして、時代はアナログから、パソコンの時代へ。
小谷さんも事務所にMacを導入し、独学でデザインソフトによるデザインをするようになった。
人生の師に仏画を勧められ、仏画の世界へ
小谷さんが45歳のとき、あらたな転機が訪れた。
小谷さんには、人生の先生と呼べる人物がいる。奥様を通して出会った恩師だ。
その先生に、「天職として、仏画を描きなさい」と言われたのだ。
仕事は生きるためにするものだが、自分の持ち味を生かしてするものは”天職”。
この天職とは魂を磨く修行でもあると先生に言われた小谷さんは、それまで仏画に興味もなく知識もなかったがさっそく始めることにした。
小谷さんの素直な性格が垣間見える。
先生には、1年目は日本中の国宝級の仏画、仏像を見るように言われたため、日本中を巡った。
2年目は知人の母親が仏画の先生をしていたので、どのように描くかを見せてもらった。
1枚の仏画をもらい、画材をそろえて同じ仏画を1年間ひたすら描いた。1000枚に及ぶという。
同じ絵でも描くときの心持ちで表情が変わる。心を練る修行だった。
1000枚描いてみて、小谷さんは自分には手描きは向かないと実感。
そこで、得意なパソコンで描くことに挑戦した。
3年目からは好きな仏画を描くよう先生に言われ、小谷さんは”普賢菩薩”をパソコンで描くことにした。
イラストレーターでパーツを作って成形していく手法だ。
時間のかかる作業ながら、グラフィックアートで仏画を描くことは、まさに、小谷さんの持ち味を生かした天職だといえる。
先生からは、後世に残そうとしなくてよいと言われていたため、プレッシャーもなく、気楽に製作に取り組めた。
ここから、小谷さんは作品を作り続け、2005年に初めての個展を開催する。
53歳のことだった。作品点数は30点にのぼる。
ギャラリーがひしめく東京の銀座で初個展が実現。
思ったように売れはしなかったが、ギャラリーのオーナーに「売れなくても、東京銀座で個展をしたことは今後意味を持ちますよ」と言われ、実際その後、個展をするときには良い影響があった。
2023年9月に35回目の個展が地元である鳥取の渡辺美術館で開かれた。
渡辺美術館が所蔵する仏画と並んで、小谷さんのグラフィックアートによる仏画が会場を鮮やかに彩った。
現代仏画と伝統仏画の両方を贅沢に見ることができる展示会に多くの人が訪れた。
これから
今後は、描くことより、今ままで描いたものをもっと多くの人に見てもらいたいと小谷さん。
また、描いた作品をひとつひとつ納まるところに納めていきたいと語る。
また、新たな旅が始まりそうだ。
現在、小谷さんはグラフィックデザインの仕事は息子さんに任せ、今しか出来ないことを楽しんでいる。
人生の紆余曲折を経て、小谷さんが得てきたものは奥深い。
これからもきっと楽しみな人生が待っていることだろう。
連絡先 090-3630-4969
インタビューを終えて
小谷さんと出会いは、2023年開催の渡辺美術館の個展だった。
知人からの紹介があり、会場へ。
想像以上の大きなサイズの仏画がずらりと並んでおり圧巻。
グラフィックアートで仏画の再現は、パーツを製作してからその組み合わせで構成していくという手法に気の遠くなる工程を想像した。
美しいグラデーションと色遣いは小谷さんの仏画の特徴。
取材に伺っていろいろ話を聞くと、人生そのものがカラフルに彩られていることに驚いた。
ぜひ、一度小谷さんの仏画に触れてみてください。新しい世界を知ることができるかもしれません。