鳥取県の東南に位置し、森林セラピー町づくりを推進している智頭町。
森林セラピーとだけあって、町の9割が森林。
木にまつわる産業も古くからあります。
この智頭町で漆器を作っているのが會州堂の橋谷田さんだ。
もともと、江戸時代の因幡では鳥取藩初代藩主池田光仲公のもと、漆器づくりが行われていた。
塗師(ぬし)を鳥取城下に住まわせ、漆器産業の基盤が作られたのだ。
明治に入ると、「久松塗」と名称を変え、小規模ながら漆器産業として発展した。
この貴重な漆器づくりをしている橋谷田さんは福島の会津出身。
なぜ、鳥取で漆器づくりをすることになったのか。その辺りを中心にお話を伺った。
会津漆器を作る家に生まれる
橋谷田さんは福島の会津若松の会津漆器を作る家に生まれる。
長男がいたため、橋谷田さんは家業を継ぐことなく、19歳で東京へ出る。
大学進学が叶わなかったため、社会人として働き出した。
会社員時代は営業職につき、これが今後の商売に役に立つ。
東京で奥様と出会い、37歳のときに奥様の実家のある鳥取へ。
鳥取で会津漆器を販売する仕事で独立
長く営業職をしていた橋谷田さんは一度は独立したいという気持ちがあり、思い切って鳥取市で独立して商売を始めることにした。
会津の実家から漆器を仕入れて販売をスタート。
お店の名前は、会津の「会」の旧漢字と国という意味のある「州」という漢字を組み合わせて、「會州堂」とした。
販売するうちにお客さんに「鳥取の漆器はないですか」と尋ねられることがあり、橋谷田さんは調べてみたがみつからなかった。
32万石の池田藩の城下に漆器がないわけはないという思いはあったが、まったく手がかりがなかった。
そのうちに、ある人物がお店にやって来た。
70歳を超えたその人物は蒔絵師(まきえし)だった。蒔絵とは、漆器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉を「蒔く」ことで器面に定着させる技法だ。
鳥取で漆を使って作品を作っている人物と出会えたのは奇跡だった。
橋谷田さんはその作品を見てとても驚いた。
見たこともない素晴らしい作品に魅せられたのだ。
鳥取に対する考え方や見方がガラリと変わった瞬間だったという。
鳥取には素晴らしい作品を作れる風土がある。
その人物、二代目田中稲月(たなか とうげつ)さんは、気高郡立徒弟学校で漆工を学んだ明治生まれの父である初代稲月より蒔絵を習った。
二代目稲月さんは鳥取県の人間国宝2号にも選ばれ、優れた蒔絵作品を作られている。
稲月さんとの交流を通して、橋谷田さんは鳥取の漆器のことを知っていく。
明治期に鳥取に平井照堂という塗師がおり、蒔絵の技術が根付いていたことがわかった。
佐治漆の存在を知る
明治期の鳥取城下の蒔絵に佐治漆が使われていたことが判明した。
佐治町は智頭町に隣接する山間の町で、佐治川石が有名だ。
佐治川石は、佐治川沿いの三群変成岩が崩れて佐治川に落ちたものである。
この三群変成岩は日本列島が出来たときの最も古い層で、地質としては水はけがよく、漆が育つには絶好の条件だった。
この佐治川沿いが漆畑となっていたのだ。
橋谷田さんは文化人類学を学び、鳥取漆器と佐治漆の研究をした。
そこで卒業論文のテーマにしたのが、鳥取漆器と漆についてだった。
ここで鳥取漆器に使われていた佐治漆について調べることにしたのだが、鳥取では関連した資料を見つけることができなかった。
先生に「絶対どこかに資料はあるはず」と励まされ、橋谷田さんは今度は県外の資料を調べたところ、断片的にではあったが佐治漆についての記述を見つけることができた。
この資料をつなぎ合わせて卒業論文が完成した。
鳥取で唯一の佐治漆の体系的な論文が出来上がったのだ。
研究のなかで、佐治漆をDNA鑑定したところ、他にはない固有の漆であることがわかった。
漆の魅力にとりつかれた橋谷田さんはさらなる探求のため、現在は鳥取県の博物館が所蔵している昔の漆器に使われた漆を分析する予定だ。
先生には学会に出ることを進められるほどの評価をもらう。
研究はまだ継続中で、漆器の器の部分を作る木地師の文化も知る必要があると調べている。
智頭周辺は木地師の集団が住んでいたことがわかっている。
橋谷田さんは責任をもって調べたものをまとめて後世に残していかなくてはと奮い立っている。
現在は、佐治に漆畑を作り、現在は150本育てて漆を採取している。
ゆくゆくは1000本にすることが目標だ。
後継者も今から育てたいと強い気持ちでいる。
自らも漆塗りをはじめる
漆について研究する一方で、橋谷田さん自身も塗師として漆器を作っている。
48歳のころ、自らも漆塗りをやってみたいとみようみまねで始めた。
初めは自己流でやっていたが、きちんと習うために京都の夜久野に5年間通った。
今では工房内の漆器はすべて橋谷田さんが塗っている。
これから
橋谷田さんは「研究は命」と言う。
研究があってこそ、情報、歴史が積み上がっていく。これは自分が死んでも残っていくものだ。
漆の文化はなくしてはならないもの。
その地域に住む人でなくても、理解してくれる人につないでゆきたいと決意は強い。
近年は、塗るものとしての漆だけでなく、食文化の観点から薬膳料理として漆を食べる会を開いている。
滋養と強壮があるそうで、夏バテにも良いという。
漆を通して、幅広い世界が展開。
橋谷田さんの探求はまだまだ続く。
漆器は智頭の會州堂で買うことができる。
インタビューを終えて
椅子に座るがいなや、こちらが尋ねる間もなく堰を切ったかのようにお話を始められたのが印象的だった。
出だしから深い話が展開。
信じられないほどの知識と情報量と熱量。
まさに、橋谷田さんは「漆に魅入られた人」だ。
そして鳥取の漆文化にもはやいなくてはならない人であると感じる。
埋もれてしまっていた鳥取の漆文化に再び光を当て、蘇らせた。
現在は後継者を探しておられるとのことで、少しでも興味のある方には橋谷田さんを訪ねてほしい。
繋いでくれる人が現れることを切に願う。